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矢島正明のエッセイ

「映画、ぼくの秘密の王国」

 僕にとって、映画は、限りなく刺激的で、面白く、そして何よりも痛快なものだった。

 エノケン「ちゃっきり金太」「孫悟空」に抱腹絶倒し、アラカン「鞍馬天狗」に喝采することから、僕の映画体験は始まった。

 それは実に無邪気な出会いであった。

 しかし、映画はただ単に面白く痛快であるばかりでなく、人の心を打つものだと知ったのは、坂東 妻三郎の、いやバンツマ「無法松の一生」を観たときだった。

 叔母に連れられて行った池袋の映画館で、何となく辛気臭い写真だなァと思いながらシートに身を沈めているうちに、いつの間にか少年時代の無法松の心情に惹かれ、ほとんど映画の主人公とひとつになって作品世界を彷徨する実感を味わった。

 それから数日後、もう一度「無法松」が見たくて矢も楯もたまらず、学校が退けると真直ぐに映画館に駆けつけ、むさぼるようにスクリーンに見入った。

 親に内緒でひとりで映画館に入ったのは、この時が最初である。

 「映画とは、何と感動的なものだろう。」

 もちろん、小学三年のぼくに、そんなボキャブラリーがある由もないが、そんな想いが、場末の映画館の便所臭い暗がりを、ぼくの「秘密の王国」に変貌させたのだった。

 だが「秘密の王国」は、その後、戦況の逼迫とともに色あせたものになっていく。

 「西住戦車隊長」
 「加藤隼戦闘隊」
 
「海軍」
 「ハワイ・マレー沖海戦」

 など、子供なりに胸踊らせるものがあったとは云え、「無法松」の孤独の世界の甘美さには程遠く、戦闘シーンの華々しさはチャンバラやアチャラカと同様、華麗なスペクタクルとして、ぼくの眼の前を空しく駆け抜けていった。

 ぼくの「秘密の王国」が復活するのは戦後である。

 戦災で校舎を失った我が母校は、教室が足りず、二部制の授業を強いられていたので、午前の部のとき、昼下がりの道草の時間がたっぷりと残される。

 そんな或る日、何の期待もなく入った焼跡の映画館で、「うたかたの恋」をみた。

 世の中には、こんな美しいものがあるのか…。

 僕は殆ど呆然とした。

 瓦礫の土埃の中で、眼をこすりながら息をひそめて生きていた中学二年のぼくは、充血した眼が洗われていく想いでスクリーンに眼をみはった。

 ダニエル・ダリュー

 この世のものとは思えぬ美女。

  「映画とは、かくも美しいものなのか。」

 そんな発見がぼくを幸せにした。

 いや、この時のぼくの瞠目は、映画そのものには殆ど向けられていなかったと云っていい。

 ウィーン郊外マイヤーリンクの雪景色も、シャルル・ボワイエの端正な横顔も、ダニエル・ダリューのクローズ・アップのワン・ショットに覆いつくされて、二時間以上近い上映時間のすべてが、そのイメージの中に収斂されていたのだった。

 翌日も翌々日も、ぼくは映画館に通いつめた。そして更に、ダリューの幻影を求めて、彼女の出演映画を漁りつくした。

 「背信」
 「不良少女」
 
「暁に帰る」・・・。

  こうして、ぼくの「秘密の王国」には、《痛快》《感動》に加えて《美》というカテゴリーがつけ加えられたのである。

 今にして想えば、ぼくのフランス映画への耽溺はこの時から始まったのかも知れない。

  高校から大学にかけて、帝都座五階の名画座にもよく通った。

 この時期は、ようやく女優の呪縛からも開放され、映画はどうやら監督のものらしいということが少し解かりかけて来ていた。

 最初の出会いは、デュリアン・デヴィヴィエ「望郷」、ペペ・ル・モコである。

 男同士の友情、信頼、裏切り、そしてシンプルな愛の悲劇が、キャスバというエキゾチックな舞台を背景に直裁に描かれる。

 美しく匂うようなミレーユ・バラン
 ギャバンがはいていたコンビの靴のクローズ・アップ 、
 メトロの匂いがするというあのラヴ・シーンの名台詞、
 死を覚悟して港へ下りていくペペ・ル・モコのバスト・ショットにオーバーラップする波のイメージ、
 それを謳うジョルジュ・オーリックの音楽、
 
そして、終幕の「ギャビー!」という主人公の叫びを非情に打ち消す船の汽笛に至るまで、ぼくはデヴィヴィエの文脈に酔った。

 「望郷」は、「うたかたの恋」とともに、繰り返しみた映画の双璧である。

 かつてダリューを追ったように、ぼくはデヴィヴィエの作品を追い廻した。

 「我等の仲間」
 「商船テナシティ」
 「舞踏会の手帖」
 「地の果て」
など、

 多分にペシミスティックな 気分の漂う作品群は、将来の方向も掴めず生きる不安にさいなまれていた高校三年生の心情に、 いささかフィットしすぎるきらいはあったけれど、人生の味わいと映画の魅力をあますところなくおしえてくれたものだ。

 更に、ルネ・クレールの「自由を我等に」「巴里の屋根の下」
 ジャン・ルノワールの「大いな る幻影」「どん底」
 ジャック・フェーデの「女だけの都」
 そして、アルセル・カルネの「ミモザ館」「北ホテル」など、

 1930年代のフランス映画は、映画の世界の多彩さと奥行きの深さを次々に展開してみせてくれたのである。

 そして、昭和27年、カルネ「天井桟敷の人々」がやって来る。

 この一大絵巻は、ぼくの秘密の王国の《痛快》《感動》《美》という三つのカテゴリーを見事に充たして余りある作品だった。

 甘美な美しさをたたえたジャン・ルイ・バローのマイム、
 ダイナミックに炸裂するピエール・ブラッスールのデクラメーション、
 妖しさと暖かさ、女性的なものと母性的なものを微妙なバランスで体現したアルレッティ
 この三人を軸にルイ・サルーやマリア・カザレスなど、

 多彩な登場人物によって織りなされるラブ・ロマンスが、そのまま祖国フランスへの痛切なラブ・ソングへと高揚する国民的映画に変容するとは、何と心憎い演出だろう。

 十九世紀、ルイ・フィリッペ治下のパリの犯罪大通りでの物語が、たちまち二〇世紀、一九四〇年代、ナチ占領下の観客に暗喩として了解される。

 展開の巧妙さは、舌を巻くばかりである。

 ラスト・シーン。

 グラン・ブールバールの雑踏の中に消えていくギャランス(アルレッティ)を追うバチスト(バロー)の悲痛な想いは、ナチ占領下で祖国フランスを求める観客の想いと詩的にオーバーラップする。

 こんな素晴らしい一大叙事詩を、時代絵巻メロドラマの体裁で軽々と描いてしまうカルネとは、いったいどんな監督だろう。

 「北ホテル」「港のマリー」のような小品しか知らなかったぼくは、その底力に撃たれた。そして、映画が時代と関わる力の大きさを改めて認識したのだった。

 「天井桟敷の人々」に舌を巻いてから10年、この感動を払拭する映画にめぐり逢うことはなかった。

 ぼくは芝居に夢中だったし、マスコミの仕事にも精を出さねばならなかった。
 勿論、その時々に感 動した作品がいくつかない訳ではなかったけれど、劇団活動と生活の忙しさに取りまぎれて、いまでは輪郭を失っている。

 次の衝撃は、テアトル・エコーでの10年の劇団活動の澱りがぼくの内部で爆発寸前まで昇まってきていた昭和40年代のはじめにやってくる。

 フェリーニ「8 2/1」である。

 この映画のラストで、ぼくは泣けて泣けて仕方がなかった。

 およそ涙腺を刺激する映画とは程遠い語り口の作品なのに、どうしてこんなにもとめどなく涙が溢れて来るのか、ぼくは了解に苦しみながら、しかし、どこか深いところから自然に湧き出してくる泉のような涙に、洗われていく自分を感じていた。

 それは決して、センチメンタルな、情緒的な涙ではなかった。

 人生についての或る認識に基づいた知的な感動の涙だった。

 物事を次元を変えて捉え直すことによって、物事は変容し、新たな価値を持って再び甦えるという「発見」に伴う涙だった、と思う。

 主人公は、フェリーニその人を思わせる映画監督グイド(マルチェロ・マストロヤンニ)彼は休息のために温泉保養地に来ているが、すでに制作がスタートした新作の構想は思うように進んでいない。

 意地悪なシナリオ・ライターは彼のアイデアに批判的だし、プロデューサーは制作の進行を情容赦なく促して来る。
 
更に、彼の新作に役を求めて群がって来る女優や仕事仲間たち、その上、妻も愛人も彼を周囲から攻めたてて来る。

 彼はどんどん自己の内部に逃げ込んでいくばかり。
 過去への追想と願望の空想…。だが、現実はどこまでも追って来る。
 記憶と空想から逆噴射して、ロケットでの地球脱出の物語へと逃れようとする映画監督グイドの嘘を、妻の堅実な眼ははっきりと見抜いている。

 彼は妻を恐れ、自分の内部世界と現実との剥離感に徹頭徹尾苦しみ抜く。

 終幕、巨大なロケット発射台のセットの前で行われた記者会見で、遂に彼は新しい映画の構想を、ひとことも述べることが出来ない。空想と現実とが錯綜するイメージの渦に何一つ統一を与えることができず混乱しきった彼は、記者たちの目を逃れてセットの中に隠れ込んでしまうのだ。

 プロデューサーは映画を放棄し、制作は中止される。

 こうして、新たな作品の創造という膨大な呪縛から逃れた主人公は、その放心の中で啓示を得る。

 「人生は祭りだ。共に生きよう!」

 この時、この映画に登場したすべての人物たち、妻をはじめ、プロデューサー、ライター、女優、すべてのスタッフ、友人、仲間、そうした諸々の存在が、自分と敵対する嫌悪すべき存在ではなく、自分の人生を取りまくかけがえのない存在として甦える。

 このかけがえのない存在を、在るがままに心をひらいて受け入れるのだ。

 夫々が夫々の「個」の中で、「個」の欲望を持って生きる孤独な人間たちに、ささやかな共生感と連帯の輪が生まれる。

 巨大なロケット発射台のセットの前、サーカスの一団を先頭に、すべての登場人物たちの踊りの輪が、ニーノ・ロータの甘美なメロディに乗って、静かに廻る。

 だが、グイドの妻は、踊りの輪の中央にまだ立ちつくしたままである。
 彼女は依然、グイドの不誠実を許すことができず、踊りの輪に入ることを拒否するのか?

 グイドが歩み寄る。手を差し伸べる。一瞬の間。彼女の唇に諦念の笑みが浮ぶ。
 そして、二人も踊りの輪の中に…。

 この瞬間にぼくの涙腺がゆるんだのは、この映画の主人公同様、この映画の主人公同様、妻に対する負い目がぼくの裡にもあったからかも知れない。
 だが、そうした個人的な思い入れを超えて、映画は人生そのものの普遍的な真実を描ききっていた。だからこそ、その涙の味は泉のようにさわやかだったのだ。

 人間は孤独なものだ。自己の内部世界は決して他人に通じるものではない。
 自明なことだ。

 だが、決して通じることのない他人もまた、自分の人生のかけがえのない存在として、自分と同じ重さを持つ。
 だとしたら、人生を織りなすこのばらばらな存在をひとつに繋ぐものは、「人生は祭りだ」という認識のほか、何があるだろう。

 こうして、夕暮れの光の中に、孤独な人間達の「共生の輪」がひろがる。

 共に生きる喜び…。

 それは、夜の闇と隣り合せの薄暮れの淡い光の中でこそ、かけがえのないものとして実感されるのかも知れない。光の充溢の中にも、漆黒の闇の中にも、人と人との交歓はないだろう。

 薄明。

 そこに漂う人生。

 フェリーニは、そのたゆたう人の世の絵模様を見事に映像化してくれる。

 その悲し気な、生きる喜びを…。

 それにしても、グイドの妻、アヌーク・エーメの辛辣な眼差しが悲しい微笑みに変る一瞬の感覚を、いまも忘れることができない。
 それは、曇天の雲間からわずかにこぼれる夕陽の優しさを湛えて、いまも、ぼくを救ってくれるのである。

 ダリュー

 アルレッティ

 アヌーク・エーメ

 どうやら、ぼくの「秘密の王国」は美しい女神たちによって統治されているらしい。

 やはり、美は、すべてのものの母という訳か・・・

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